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山之下 朝陽
[ROCK ON PRO Product Specialist Team / Assistant]Immersive Audioを用いた芸術音響作品を創作し国内外で発表を行なってきた経験から、音楽表現を支える最先端の技術を広めるべくROCK ON PROへ。メガネは伊達。
株式会社マジックカプセル様 / アニメ音響制作に特化したスタジオと、360VME によるその最大活用術
株式会社マジックカプセルは、1970年の設立以来、長きにわたり第一線で数多くのアニメ作品を手がけてきた音響制作会社だ。2023年春には、3つの収録スタジオを備えた新社屋を東京都内にオープン。日本アニメの“音”を支える新たな拠点として、本格的に稼働を開始している。この新スタジオは、アニメの音響制作に特化しているからこそ可能となった、あらゆる実務の側面に配慮された理想的な空間だ。細部にまで行き届いた設計思想と、その運用を担うプロフェッショナルたちのこだわりに迫るべく、ハウス・エンジニアの根岸 信洋氏、進藤 公隆氏にお話を伺った。
今回伺ったのは、メインスタジオにあたる通称「BASE1」。部屋の設計から音響調整までを株式会社SONAが手がけており、Dolby Atmos 7.1.4chにも対応するスタジオだ。隣接するアフレコルームでの収録から、その後のミキシング、ダビング作業までを一貫して行えるよう設計されている。
近年、アニメ業界でもNetflixを中心にDolby Atmos対応コンテンツの制作が増加しており、「今、新たにスタジオを構えるならAtmos対応は不可欠」との判断から、このBASE1を軸にビル全体の設計が進められたという。中でも大きなこだわりが、約3mの天井高だ。Dolby Atmos対応スタジオを構築する上で、天井高と部屋の容積は最初に直面する課題となる。ビルそのものから新築するというタイミングを活かし、設計段階から要件を妥協なく反映させた理想的なスタジオが完成した。天井の構造や意匠からも、Dolby Atmosへの強い意識が感じとっていただけるだろう。
モニタースピーカーには、移転前のスタジオでも使用されていたProcella Audioを継続して採用。フロント、サラウンド、ハイトの各チャンネルには、基本構成としてP8とローボックスのP15Siをセットで使用している。センターチャンネルのみ、P8に加えてP15Siを2台組み合わせた構成だ。サブウーファーにはP15を2台設置している。エンジニアにとって聞き慣れた音を踏襲しながら、Dolby Atmosの立体的な音場表現へと自然に拡張された構成となっている。
アフレコとミックス、大きく2種類の作業内容に対応できるよう、特注で制作されたデスク。なんといっても一番の特徴は中心部分の各ブロックがモジュールのように自由に移動可能であるということだろう。アフレコの際は真ん中でアナログフェーダーを持ちたい、ミックスの際はAvid S1が中心に来て欲しいという実作業上の理想を叶える機構だ。以前のスタジオではアフレコが中心位置で行える代わりにミックス時は横にずれた位置で行っていたという。中心から外れた分だけ音の印象ももちろん変化するため、その変化を見越した編集が必要であった経験から、モニタリングポジションを限定するというコンセプトで設計された。
このスタジオでのアフレコは基本4本のマイクで行うため、そこまで大型なコンソールなどは必要なく、しっかりと録れる数本のフェーダーがあればよいということから、Penny+Giles(P&G)社製のアナログフェーダーをユニット化して導入。4本のマイクに対して数十名の役者が入れ替わり立ち替わりして、それに合わせて各マイクchを操作していくという日本のアニメアフレコならではの独特な収録では、咄嗟に指先ではじくようなフェーダーワークにも対応できる滑らかさが重要だという。またマイクプリアンプには、Rupert Neve Designsの5211が採用されている。アニメ作品における芝居はダイナミックレンジが広いため、絶叫のような大音量でも歪まず、寝息のような繊細な音も持ち上げられる高いS/N比が、機種選定の決め手となった。
カスタムレイアウトの利点はフェーダーの配置だけに留まらない。収録時のエンジニアにとって視界に収めておきたい、台本、役者の動き、本編映像、VUメーター、そしてフェーダーがすべて理想の位置に集約できるのは、まさにアニメのアフレコ収録に特化した機能性と言えよう。ここにも根岸氏がいままで様々なスタジオで作業してきた経験と知見が、余すところなく詰め込まれている。
劇場用の仕込みはスクリーンを用いて行われるため、テレビモニターは完全に収納できるよう、下降式の機構が採用されている。テレビとセンタースピーカーの位置関係は、多くのスタジオにとって悩ましいポイントだ。本スタジオでは、TV用の編集時にはテレビとステレオLRを使用し、劇場用の作業時にはテレビが下降、その位置にセンタースピーカーが現れる仕組みとなっている。このシステムの要となる、50インチのテレビを完全に隠すことができる昇降スタンドの選定には、かなりの時間を要したという。
また、VUメーターも画面位置に合わせた位置に調整できるよう、昇降式スタンドに設置されている。仕込み作業は時に丸1日かかることもあり、首の動きをできる限り減らしたいというエンジニアの要望に応える設計だ。さらに、在籍するエンジニア一人ひとりの体格に応じて、無理のない姿勢で作業できる点も大きな利点となる。実際に、肩こりなどの身体的な負担が軽減されたという声もあり、機材のスペックだけでなく、長時間の使用が前提となるスタジオにおいては、身体への配慮も重要な要素となっている。
左袖にはアシスタント席が設けられており、Pro Toolsの操作など、アシスタントの基本的な作業はここで行われる。左手には室内用の機材ラックが配置されており、動くことなくパッチ盤にも手が届く設計だ。また、フェーダーを握るエンジニアや背後に座るディレクター、さらにはガラス越しのアフレコルームまで、現場全体を見渡せる視界の広さも、アシスタント業務にとっては重要なポイントとなっている。
ここまで紹介してきた、こだわり抜かれたスタジオをさらに効率的に運用するために導入されたのが、SONY 360 Virtual Mixing Environment(通称:360VME)だ。昨年より出張測定サービスが開始され、自身のスタジオの音響環境をヘッドホン上に再現・持ち運べるようになったことで、この技術の活用範囲は一気に広がりを見せている。マジックカプセルでは、サービス開始直後から所属エンジニア全員が測定を実施し、日常業務で積極的に活用しているという。今回はその具体的な効果や、実践的な活用のコツについてもインタビューを行った。
Rock oN(以下、R):まずは360VMEを知ったきっかけについてお教えいただけますか?
根岸:以前、MIL Studio(※360VME測定サービスも実施している弊社スタジオ)にお伺いする機会があり、そこで初めて360VMEを体験させていただきました。正直なところ、最初はそれほど期待していなかったんです。これまでも、スタジオの音場をシミュレートするプラグインは色々と試してきましたが、僕たちが重要視しているセリフの繊細なバランスや、リバーブの質感までは再現できなかったので。ところが、実際に体験してみて驚きました。特にセンタースピーカーがしっかりとセンターに感じられたというのが一番の印象です。すぐに社内でもその体験を共有しました。
R:導入を決めた最大の理由は?
根岸:本来なら、仕込みも含めてミックスはこのBASE 1スタジオで完結させたいのですが、アフレコなどの他の作業も多く、常に部屋を押さえておくのは難しいです。そのため、Editルームや、自宅でのヘッドフォン作業をするしかありませんでした。しかも、BASE1の空き時間を少しでも見つけては持ち込みチェックするという作業が発生してしまいます。こうした問題が360VMEを導入することで解消できるかなと思いました。
R:実際に導入されてみての率直なご感想は?
根岸:使わない日は無いですね。今朝も使ってきました(笑)。自宅ではMacBookに小型のインターフェースを繋いで使っていますし、出張先のホテルでも活用しました。特に力を発揮するのはサラウンドの作業ですね。アニメでもセリフにセンタースピーカーをよく使うのですが、それが最初の印象通りはっきりよく分かるというのが大きいです。パンニングの感覚も問題ありません。
R:360VMEは、作業のどのタイミングで活用されていますか?
根岸:アシスタントが調整した音源を受け取った後、最初の編集から使用しています。セリフのレベル調整や加工、パンニングなど、スタジオが空いていない時は基本360VMEで進めています。自宅には小型モニターもありますが、作業ではVMEで行うことの方が多いくらいです。そして最終的にはBASE1に入り本番の調整を行います。
R:360VMEで仕込んだ素材をスタジオで再生したときの印象は?
根岸:まったく違和感がありません。特にリバーブやアンビエンスの感覚は、仕込みで狙った通りのものが鳴ってくれます。音楽とセリフに関しても、VMEで軽くレベルのバランスをとるのですが、スタジオで確認してもそのとき書いたオートメーションとほぼ一致していて。つまり、BASE1の聴感が再現できているということですよね。これまで普通のヘッドフォン作業では”ヘッドフォンの鳴り方”から逆算して作業する必要があったので、そこを考えるストレスは無くなりました。
R:測定されたフォーマットはDolby Atmosですが、実際はどのフォーマットで作業することが多いですか?
根岸:一番多いのはステレオですね。サラウンドでも使用しますが。ただ、Dolby Atmosを聴く機会は格段に増えました。アトモスに触れる機会が増えたので、自分達の勉強の機会にも一役買っています。スタジオに来なくても気軽にアトモスが聴けるので。
R:定位感と音色、それぞれの再現性についてはどう感じられましたか?
進藤:どちらとも特に問題は感じていません。最初に体験した時にはヘッドフォンとスピーカーどっちで聴いているのかわからないほどでしたので。僕はもともと、ヘッドフォンでの仕込み作業はできなかったんです。スピーカーとヘッドフォンではレンジ感が違いますから。ですが、360VMEではヘッドフォンでもこの部屋のレンジ感が再現できるのが一番驚いた部分です。
根岸:バックサラウンドの奥行きや、Dolby Atmosの高さもしっかり感じられています。それと、低音がしっかり濁らずブレずに聴こえるのは凄いなと思いました。
R:一度再測定も実施させていただきましたが、改善はありましたか?(※測定サービスでは、測定後1ヶ月以内は無償で再測定が可能。)
根岸:初回の測定データではパンを右に振った時に少し上に上がるように感じられたのですが、再測定後には治りました。たぶん、最初の測定時に姿勢がブレていたんでしょうね。
R:アプリケーションに搭載されているEQとDe-Reverb機能は、どのように活用されていますか?
根岸:360VMEでは響きが強めに感じる傾向があるので、そこはDe-Reverbで結構カットしています。一度パラメーターを追い込んだ後は設定は固定しています。我々の場合、セリフを収録するときは芯を捉えているつもりでも、響きが乗って聴こえると「収録時にどこかミスしているのでは?」と不安になる部分があるので、ほぼ響きが無い方が作業しやすかったです。
R:その他、気に入っているポイントがあれば教えてください。
根岸:ダイレクトに聴いている感じが無いからなのか、ヘッドフォン特有の耳の疲労感が本当に少ないです。実は一番恩恵のある部分かもしれません。
進藤:使用しているSONY MDR-MV1が軽いというのも大きいです。仕込みでは4〜5時間の作業となることもありますが、長時間着けていても耐えられます。
R:これから360VMEを導入する方へ、使用上のコツがあればお願いします。
進藤:スタジオ特有のダイナミックレンジに関してとても再現度が高いので、あとはDe-Reverbで自分の好みの設定を見つけて作業していただければと思います。
根岸:慣れることが大事です。最初はいままでの、「ヘッドフォンからスタジオの音場が聴こえる訳が無い」という先入観が邪魔をします。その違和感が無くなり、「ヘッドフォンをしているがスタジオの音がする」というのを身体が覚えてくる感じですね。
事前に説明は受けていましたが、最初に別の部屋で聴いたときは、「測定直後にその場で聴いた感覚とこんなに違うの?」とは思いました。やはり視覚情報は大きいんですね。ですが何度か使用して、スピーカーの聴感が再現できていることが信頼できてくると、正確に聴こえるようになっていきます。
R:これまでにないことですから、新しい感覚に馴染んでいくイメージなんですね。ありがとうございました!
歴史ある制作会社の中で長年培われてきた、日本アニメにおける音響制作の技術。その力を存分に発揮するため、徹底して作り込まれたこのスタジオからは、音に対する妥協のない姿勢が明確に伝わってくる。現場を知るエンジニアの視点で細部にまでこだわり抜かれた設備環境は、作業の快適さを通して最終的な作品のクオリティに直結する本質的な要素だ。再現性の高い仮想モニタリング環境と実スタジオのハイブリッドな運用は、音響制作の精度と柔軟性をより引き出す方法論として、今後のポストプロダクションの在り方に一つの指標を示している。
*ProceedMagazine2025号より転載
*記事中に掲載されている情報は2025年07月16日時点のものです。