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前田 洋介

前田 洋介

[ROCK ON PRO Product Specialist]レコーディングエンジニア、PAエンジニアの現場経験を活かしプロダクトスペシャリストとして様々な商品のデモンストレーションを行っている。映画音楽などの現場経験から、映像と音声を繋ぐワークフロー運用改善、現場で培った音の感性、実体験に基づく商品説明、技術解説、システム構築を行っている。

Chimpanzee Studio 様 / 〜コンパクトスタジオのスタイルを広げるDolby Atmos〜

本職はプロのミュージシャン。ドラマーを生業としつつ、スタジオの経営を鹿児島で行う大久保氏。そのスタジオにDolby Atmosの制作システムを導入させていただいたので詳細をお伝えしたい。かなり幅広い作品の録音に携わりつつも、自身もミュージシャンとしてステージに立つ大久保氏。どのようにしてスタジオ運営を始め、そしてDolby Atmosに出会ったのだろうか?まずは、スタジオ開設までのお話からお伺いした。

90年代のロスで積み重ねた感覚

それではスタジオ開設に至る経緯をたどってみたい。鹿児島出身である大久保氏は学生時代より楽器を始め、広島の大学に進学。その頃より本格的に音楽活動を始めていたということだ。普通であれば、学生時代に特にミュージシャンとしての道を見出した多くの場合は、ライブハウスの数、レコーディングセッションの数など仕事が多くある東京、大阪、福岡といった大都市をベースに活動を本格化させるのが一般的である。しかし大久保氏は日本を飛び出し、全てにおいて規模が大きく好きな音楽がたくさん生まれたロサンジェルスの地へと一気に飛び立った。ロサンジェルスは、ハリウッドを始めとしたエンターテイメント産業の中心地。大規模なプロジェクト、本場のエンターテイメントに触れることとなる。なぜ、アメリカ、そしてロサンジェルスを選んだのか?その答えは文化の違いとのことだ。アメリカには町ごとに音楽がある。ロス、ニューヨーク、シアトル、アトランタ、それぞれの街にそれぞれの音楽がある。そんな多様性、幅の広さが魅力だという。


Chimpanzee Studio(チンパンジースタジオ)
大久保 重樹 氏

ロスに移住してからは、ミュージシャンとして活躍をする傍ら、住んでいた近くにあったレコーディングスタジオのブッキングマネージメント、日本からのミュージシャンのコンサルなどを行ったということだ。時代は1990年代、まだまだ日本のアーティストたちもこぞってアメリカまでレコーディングに出かけていた時代。そこで、自身もミュージシャンで参加したり、スタジオ・コーディネイトを行ったりと忙しい日々を過ごしていたそうで、ロスでも老舗のSunset Soundやバーニー・グランドマンにも頻繁に通っていたというからその活躍がいかに本格的なものであったかが伺える。

そんな環境下で、スタジオによく出入りをし、実際にレコーディングを数多く経験するうちに、録音というものに興味が湧いてきたということだ。まずは、自身のドラムの音を理想に近づけたい、どうしたらより良いサウンドへと変わるのか?そういったことに興味を持った。そして、今でも現役として使っているBrent Averillのマイクプリを入手することになる。今では名前が変わりBAE Audioとなっているが、当時はまさに自宅の一角に作業場を設け、手作業で一台ずつ製品を作っていた文字通りガレージメーカーだった時代。創業者の名前をそのままにメーカー名をBrent Averillとしていたのも、自身の名前をフロントパネルにサイン代わりにプリントした程度、というなんとものどかな時代である。

大久保氏は、実際にBrent氏の自宅(本社?)へ出向き今でもメインで活用しているMic Preを購入したそうだ。そのエピソードも非常に面白いものなので少し紹介したい。Brentさんの自宅は大久保氏とは近所だったというのも訪問したきっかけだった。そしてそこで対応してもらったのが、なんと現Chandler Limitedの創業者であるWade Goeke氏。その後、世界を代表するアウトボードメーカーを立ち上げることとなるGoeke氏の下積み時代に出会っているというのは、ロサンジェルスという街の懐の深さを感じさせるエピソードだ。


📷Pro ToolsのI/O関連とMicPreは正面デスクの右側に設置。上のラックにはDirectout ANDIAMO、AVID MTRX。下のラックには、DBX 160A、Brent Avirill NEVE 1272、Drawmer 1960が入っている。

ネットの可能性を汲み取った1997年、鹿児島へ

そんなロスでの生活は1990年に始まったそうだが、時代はインターネットが普及への黎明期を迎えていた時期でもある。ロスと日本の通信は国際電話もあったが、すでにEメールが活用され始めていたということ。必然性、仕事のためのツールとしてインターネットにいち早く触れた大久保氏は「これさえあれば世界のどこでも仕事ができる」と感じた。アーティストならではなのだろうか?いち早くその技術の持つ可能性を感じ取り、活用方法を思いつく。感性と一言で言ってしまえば容易いが、人よりも一歩先をゆく感覚を信じ、鹿児島へと居を移すこととなる。ロスで知り合ったいろいろな方とのコネクション、人脈はインターネットがあればつながっていられる。それを信じて帰国の際に地元である鹿児島へと戻ったのである。帰国したのが1997年、日本ではこれからインターネットが本格的に普及しようかというタイミングである。その感性の高さには驚かされる。

鹿児島に帰ってからは、マンションでヤマハのアビテックスで防音した部屋を作りDAWを導入したということだ。最初はDigital PerfomerにADATという当時主流であったシステム。もちろんミュージシャンが本職なので、最初はエンジニアというよりも自分のスキルを上げるための作業といった色合いが強かったそうだ。そのエンジニアリングも、やればやるほど奥が深くどんどんとのめり込んで行き、自身でドラムのレコーディングができるスタジオの設立を夢に描くようになる。ドラムということで防音のことを考え、少し市街地から離れた田んぼの真ん中に土地を見つけ、自宅の引っ越しとともに3年がかりで作り上げたのが、現在のチンパンジースタジオだということだ。今は周りも住宅地となっているが、引っ越した当時は本当に田んぼの真ん中だったということ。音響・防音工事は株式会社SONAに依頼をし、Pro Toolsシステムを導入した。

スタジオのオープンは2007年。オープンしてからは、国内のアーティストだけではなく、韓国のアーティストの作品を手掛けることも多いということだ。チンパンジースタジオができるまではライブハウスや練習スタジオに併設する形での簡易的な録音のできる場所しかなかったそうで、鹿児島で録音に特化したスタジオはここだけとなる。チンパンジースタジオでの録音作業は、地元のCM音楽の制作が一番多いということだ。自身がメインで演奏活動を行うJazzはやはり多くなるものの、ジャンルにこだわりはなく様々なミュージシャンの録音を行っている。

地元ゆかりのアーティストがライブで鹿児島に来た際にレコーディングを行うというケースも多いということだ。名前は挙げられないが大御所のアーティストも地元でゆっくりとしつつ、レコーディングを行うということもあるということ。また面白いのは韓国のアーティストのレコーディング。特に釜山からレコーディングに来るアーティストが多いということだ。福岡の対岸に位置する釜山は、福岡の倍以上の人口を抱える韓国第2の都市でもある。しかし、韓国も日本と同様にソウルへの1極集中が起こっており、釜山には録音のできる施設が無いのが実情の様子。そんな中、海外レコーディング先としてこのチンパンジースタジオが選ばれることが多いということだ。


📷錦江湾から望む鹿児島のシンボルとも言える桜島。チンパンジースタジオは市街から15分ほどの距離にある。

📷Proceed Magazine本誌で別途記事を掲載している鹿児島ジャズフェスティバルのステッカーがここにも、大久保氏はプレイヤーとして参加している。

省スペースDolby Atmos環境のカギ

📷内装のブラッシュアップに合わせ、レッドとブラックを基調としスタイリッシュにリフォームされたコントロールルーム。右にあるSSL XL Deskはもともと正面に設置されていたものだが、DAWでの作業が増えてきたこと、またAtmosの制作作業がメインとなることを考えPCのデスクと位置が入れ替えられている。またリフォームの際にサラウンド側の回線が壁から出るようにコンセントプレートが増設されている様子がわかる。Atmos用のスピーカーはGenelec 8020、メインのステレオスピーカーはADAM A7Xとなっている。

スタジオをオープンさせてからは、憧れであったアナログコンソールSSL XL Deskを導入したりマイクを買い集めていったりと、少しづつその環境を進化をさせていった。そして今回、大きな更新となるDolby Atmos環境の導入を迎えることとなる。Dolby Atmosを知るきっかけは、とあるお客様からDolby Atmosでの制作はできないか?という問い合わせがあったところから。それこそAtmosとは?というところから調べていき、これこそが次の時代を切り拓くものになると感じたということ。この問い合わせがあったのはまさにコロナ禍での自粛中。今まで通りの活動もできずにいたところでもあり、なにか新しいことへの試みをと考えていたこともあってAtmos導入へと踏み切ったそうだ。

当初は、部屋内にトラスを組みスピーカーを取り付けるという追加工事で行おうという簡易的なプランだったというが、やるのであればしっかりやろうということなり天井、壁面の内装工事をやり直してスピーカーを取り付けている。レギュレーションとして45度という角度を要求するDolby Atmosのスピーカー設置位置を理想のポジションへと取り付けるためには、ある程度の天井高が必要であるが、もともとの天井の高さもあり取り付けの位置に関しても理想に近い位置への設置が可能であった。取り付けについても補強を施すことで対応しているという。合わせて、壁面にも補強を行いスピーカーを取り付けている。このような設置とすることで、部屋の中にスピーカースタンドが林立することを避け、すっきりとした仕上がりになっている。また、同時にワイヤリングも壁面内部に埋め込むことで、仕上がりの美しさにもつながっている。環境構築にはパワードスピーカーを用いるケースが多いが、そうなると、天井や後方のサラウンドスピーカーの位置までオーディオ・ケーブルとともに電源も引き回さなければならない。これをきれいに仕上げるためには、やはり内装をやり直すということは効果的な方法と言える。


📷天井のスピーカーはDolby Atmosのリファレンスに沿って、開き角度(Azimuth)45度、仰角(Elevation)45度に設置されている。天井が高く余裕を持って理想の位置へ設置が行われた。

今回のDolby Atmos環境の導入に関しては、内装工事という物理的にスピーカーを取り付ける工事もあったが、システムとしてはオーディオインターフェースをMTRXへと更新し、Dolby Atmos Production Suiteを導入いただいたというシンプルな更新となっている。XL Deskを使ったアナログのシステム部分はそのままにMTRXでモニターコントロールを行うAtmos Speakerシステムを追加したような形だ。録音と従来のステレオミキシングに関しては、今まで通りSSL XL Deskをメインとしたシステムとなるが、Dolby Atmosミックスを行う際にも従来システムとの融合を図った更新が行われている。やはり今回のシステム更新においてMTRXの存在は大きく、ローコストでのDolby Atmos環境構築にはなくてはならないキーデバイスとしてシステムの中核を担っている。


📷今回更新のキーデバイスとなったAvid MTRX、持ち出しての出張レコーディングなどでも利用するため別ラックへのマウントとなっている。

📷収録時のメインコンソールとなるSSL XL Desk。プレイヤーモニターへのCueMixなどはこのミキサーの中で作られる。アナログミキサーなのでピュアにゼロレイテンシーでのモニタリングが可能だ。

📷ブースはドラム収録できる容積が与えられ、天井も高くアコースティックも考えられた設計だ。

Dolby Atmos構築のハードルを下げるには

エンドユーザーに関しては、ヘッドフォンでの視聴がメインとなるDolby Atmos Musicだが、制作段階においてスピーカーでしっかりと確認を行えることは重要だ。仕込み作業をヘッドフォンで行うことはもちろん、ヘッドフォンでのミックスを最終的にしっかりと確認することは必要なポイントではある。しかし、ヘッドフォンでの視聴となるとバイノーラルのプロセッサーを挟んだサウンドを聴くことになる。バイノーラルのプロセスでは、上下や後方といった音像定位を表現するために、周波数分布、位相といったものに手が加わることとなる。サウンドに手を加えることにより、擬似的に通常のヘッドフォン再生では再現できない位置へと音像を定位させているのだ。これは技術的にも必要悪とも言える部分であり、これを無くすことは難しい。スピーカーでの再生であればバイノーラルのプロセスを通らないサウンドを確認することができ、プロセス前のサウンドで位相や定位などがおかしくないか、といったことを確認できる。これは業務として納品物の状態を確認するという視点からも重要だと言える。

制作の流れとしては、スピーカーで仕上げ、その後にヘッドフォンでどのように聴こえるかを確認するわけだが、バイノーラルのプロセスを通っているということは、ここに個人差が生じることになる。よって、ヘッドフォンでの確認に関して絶対ということは無い。ステレオでのMIXでもどのような再生装置で再生するのかによってサウンドは変質するが、その度合がバイノーラルでは耳の形、頭の形といった個人差により更に変化が生じるということになる。ここで、何をリファレンスとすればよいのかという課題が生じ、その答え探しの模索が始まったところだと言えるだろう。バイノーラルのプロセスでは音像を定位させた位置により、音色にも変化が生じる。そういったところをスピーカーとヘッドフォンで聴き比べながら調整を進めるということになる。

制作のノウハウ的な部分に話が脱線してしまったが、スピーカーでサウンドを確認できる環境が重要であるということをご理解いただけたのではないだろうか。省スペースなDolby Atmos環境であっても、物理的に複数のスピーカーを導入するといった機材の追加は、その後に制作される作品のクオリティのために必要となる。また、システムとしてはAvid MTRXの登場が大きい。モニターコントローラーや、スピーカーチューニングなどこれまでであれば個別に必要であった様々な機器を、この一台に集約することができている。チンパンジースタジオでは、このMTRXの機能をフルに活用し、機材の更新は最低限にして、内装更新やスピーカー設置といったフィジカルな部分に予算のウェイトを置いている。前号でご紹介した弊社のリファレンスルームもしかり、そのスペースにおけるキーポイント明らかにし、そこに焦点をあてて予算を投入することで、Dolby Atmos Music制作環境の構築はそれほど高いハードルにはならないということをご理解いただきたい。


大久保氏は今回Dolby Atmosのシステムを導入するまでは、完全にステレオ・オンリーの制作を行ってきており、5.1chサラウンドのミキシング経験もなかったそうだが、今回の導入でステレオから一気にDolby Atmos 7.1.4chへとジャンプアップしている格好だ。お話をお伺いしたときには、まだまだ練習中ですと謙遜されていたが、実際にミックスもすでに行っており本格稼働が近いことも感じられる。今後はアーティストの作品はもちろん、ライブ空間の再現など様々なことにチャレンジしたいと意気込みを聞くことができた。鹿児島で導入されたDolby Atmosが、その活動に新たな扉を開いているようである。


 

*ProceedMagazine2021号より転載

*記事中に掲載されている情報は2021年07月21日時点のものです。